境内紹介


文学碑(歌碑・詩碑 他)

詩・歌・句碑




文学碑・その他


高杉晋作(東行)詩碑

題焦心録 焦心録に題す 高杉晋作
内憂外患迫吾州 内憂外患吾が州に迫る
正是邦家存亡秋 正に是れ邦家存亡の秋
将立回天回運策 将に回天回運の策を立てんとす
捨親捨子亦何悲 親を捨て子を捨つる亦何ぞ悲しまん

高杉晋作(東行)24歳、元治元年(1864)晩秋の作(自筆)
元治元年12月15日、長府功山寺での高杉晋作の挙兵を「回天義挙」といいますが、「回天」の語がこの詩に出ているのが注目されます。
このとき、高杉晋作は結婚後、5年にしてやっと長男にめぐまれ、生後75日を迎えたばかりですが、国家が存亡の危機にあるとき、わが子や親を捨てることになっても、何ら悲しむべきことではない、と決意のほどを詠んでいます。
平成20年(2008)4月、清水流東行庵訡詠会結成40周年記念で建立。

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(正面)
面白きこともなき世を面白く 高杉晋作
住みなすものは心なりけり 野村望東尼

(右側面)
吾すれば人もするかと思ひきに
人々そなき人の世の中

(左側面)
西へ行く人を慕ひて東行く
わが心をば神や知るらむ

正面の句は、高杉晋作と野村望東尼の合作として有名な句で、病床での作と思われます。野村望東尼は、福岡藩士野村貞貫の妻で、歌を大隈言道に学んでいます。夫と 死別後剃髪しましたが、尊皇の熱情に燃え、志士を励まし、山荘(平尾山荘)に高杉晋作をかくまったことから、慶応元年(1865)玄界灘の姫島に流されましたが、高杉晋作によって救い出され、下関で高杉晋作を看病ののち、現在の防府市で没しました。
平成13年(2001)3月18日建立。

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小原六六庵詩碑

高杉春風隊長墓前作 小原六六庵

奇兵隊長睡斯山 奇兵隊長は斯の山に睡(ねむ)る
明治以来悠俗寰 明治以来(このかた)俗寰(かん)に悠(とおし)
想起當年不堪見 当年を想い起せば見るに堪えず
杜鵑花発松柏間 杜鵑(とけん)花発(ひら)く松柏の間

・杜鵑花 さつき(つつじの意)

本名小原清次郎、四国松山の漢詩家で独自な書体の書道家でもありました。昭和41年(1966)4月14日、東行の百年祭に詣でたときの墓前の作。
昭和54年(1979)4月14日、高杉晋作の113回忌に清水流東行庵吟詠会結成10周年の記念行事として建立除幕されました。小原六六庵の自筆。

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古川薫文学碑

夢魂独飛春秋志 古川 薫

半生の事業志と違(たが)う
空しく愁情に客衣(かくい)を促さる
愧(はず)らくは蓬窓孤枕(ほうそうこちん)の
上に死せんことを
夢魂独(むこんひと)り故園に向って飛ぶ

失意の高杉晋作が10年間の賜暇を得て、京都から帰国した文久3年(1863)4月、周防室津港で詠んだ七言絶句から四字を採り、これに「春秋志」を次韻として、碑銘を「夢魂独り飛ぶ春秋の志」へ。
それは、英傑の想いにかさねて、現代を生きるわれわれの夢魂を飛翔させ、実りある春秋としたい願いをこめたものです。奇兵隊創設は、東行先生がこの詩を詠まれてから二か月後のことです。
郷土に関わる数多くの人々を描いた作品のある古川薫氏は、とりわけ高杉晋作への想いを強くもっておられます。
『漂泊者のアリア』で直木賞受賞。下関市長府に在住。
碑の裏面に、夫人・森重香代子氏の歌が刻まれています。
「もの書きて生きゆくものを傍観し
 妻ゆゑにときにゆきてかかはる」
平成18年4月建立。

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司馬遼太郎文学碑

長州は奇兵隊の国である。
 司馬遼太郎「街道を行く」より

平成8年(1996)2月に亡くなった司馬遼太郎が、歴史紀行『街道を行く』の中で
「長州は、武士と庶民が一丸となって維新を成し遂げた」
と記しています。
また、「私は日本の景色のなかで馬関(下関)の急潮をもっとも好む。自然というものは動いていなければいけない。…」
と、関門海峡の風景を賛美しています。

司馬遼太郎の文学碑は、山口県内では最初で、全国でも三番目。台座は山口県の地形をイメージしています。
平成10年2月建立。

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白石正一郎(資風)歌碑

白たへににほへる梅の花ゆえに
あけゆく空もみどりなるらん

文久3年(1863)6月8日、高杉晋作は竹崎町の白石家において奇兵隊を結成しました。(『白石正一郎日記』)結成と同時に白石正一郎と弟の廉作が入隊、さらに正一郎は奇兵隊を財政的にも支えていました。
彼は優れた歌人であり、八百余首の歌を収めた歌集「松のおち葉」があります。その中から晋作が愛した梅花に因んでの歌です。
歌碑の文字は中原雅夫。昭和48年(1973)6月9日除幕。
中原雅夫は「幕末の豪商志士・白石正一郎」など多数の著作があります。

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高杉東行(晋作)歌碑

おくれてもおくれても又君たちに
誓ひしことをあに忘れめや

日本ではじめてつくられた招魂社、桜山招魂社は、文久3年(1863)の攘夷戦で戦死者が出たことから、高杉東行らが主唱して慶応元年(1865)8月6日に鎮座祭が行われ、その時に詠んだ歌です。
昭和48年4月14日建立、碑の文字は高杉勝(曾孫)。
同じ時に、
「弔むらわる人に入るべき身なりしに
 弔むらう人となるそはつかし」
という歌も詠んでいます。
「遅れをとってしまった。しかし、かならず後から行くぞ」という気迫がみなぎっています。

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山縣有朋歌碑

となりなき世をかくれ家のうれしきは
月と虫とにあひやとりして

慶応元年(1865)、山縣有朋が奇兵隊の軍監であったころ、現・下関市豊浦町の石川良平の娘友子と結婚、現在の東行庵の付近に小庵を建て無隣庵と称し、新婚生活を営んでいました。そのころ詠んだものです。
有朋は歌人としてもすぐれた存在で、当時詠んだものでは、
「いつしかと聞くになれたる松風も
 耳たつ秋になりにけるかな」
「きのふけふみねのしくれに我庵の
 軒はのもみち色つきにけり」
など多くの歌をのこしています。
歌碑の文字は山縣有朋の自筆、無隣庵主と揮毫しています。明治17年5月15日、建立。

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山中茂樹歌碑

偉(おお)き人ここに眠るか直土(ひたつち)に
散りてひそけし松の落葉は

北九州市在住であった歌人山中茂樹は、下関市の出身。「赭土」「燭台」等の文芸誌に参加、後に『日方』を刊行するなど、北九州歌壇の重鎮として貢献しています。
この歌は昭和3年(1928)、同氏が30歳の時に東行庵を訪れて詠んだものです。
門人の発意によって建立。昭和54年(1979)6月3日除幕、文字は門人村上利男氏の筆によるものです。

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奇兵隊灯籠

国家多難数祈公廟誅内奸攘外賊
今茲丙寅八月落小倉城
固非人力得之延命寺以徒吉田根陣
奉祠前聊報神助之萬分  奇兵隊
 元治三年冬立  奇兵隊


国家多難、しばし公廟に内奸を誅し、
外賊を攘わんことを祈る。
今ここに丙寅八月小倉城を落す。
もとより人力に非ず。
これを延命寺に得、以って吉田根陣に移す。
祠前にいささか神助之萬分に報い奉る。奇兵隊
 元治三年冬立  奇兵隊


この灯籠は、慶応2年(1866)7月、現・北九州市小倉北区赤坂での長州藩と小倉藩の激戦(幕長戦争)があり、8月1日、小倉城落城。奇兵隊が戦利品として延命寺から吉田本陣に持ち帰った灯籠です。
この碑文は、灯籠の棹の部分に刻まれています。
この灯籠は、以前、清水山の聖観音菩薩像の左右に設置されていましたが、現在は、灯籠の風化を防ぐことから東行記念館の二階に保存されています。
建立年が、元治3年とありますが、これは慶応2年(1866)のこと。年号の慶応は、慶に応じると読むことが出来ることから、「慶」の文字(慶喜)が入っているのを嫌ったためといわれています。

※昭和43年1月9日、吉田天神の旧境内で、半分土に埋まっていたのを谷玉仙庵主が発見。掘り起こすと「奇兵隊」の文字が見つかったそうです。

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横山白虹・房子句碑

梅寂し人を笑はせをるときも 白虹

欄に尼僧と倚りぬ花菖蒲 房子
(欄は、おばしま)

横山白虹は本籍地、山口県長門市、医学博士で現代俳句協会、北九州文化連盟会長を歴任し、俳誌「自鳴鐘」を主宰して長く門弟を育成しました。横山健堂の長男。昭和58年(1983)11月18日没、84歳。
この句は、昭和34年の作です。

横山房子は、白虹の夫人、現「自鳴鐘」の主宰です。この句は、昭和59年6月、当東行庵で詠まれました。
句碑は、昭和59年(1984)11月11日、自鳴鐘の門人により建立されました。

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大田里灯句碑

蟻の列奇兵隊小者喜作の墓

大田里灯(本名文男)、大正10年(1921)下関市吉母に生れました。下関中学校(県立下関西高校)から山口高商を卒業、昭和20年から57年までの37年間、下関工業高校で社会科の教鞭をとり、俳句を兼崎地橙孫と土居南国城に師事しました。「松露」同人。句集に「雪雫」「山帰来」などがあります。
この句は、「喜作の墓の前を蟻の列が続いている。それをじっと見ていると、明治維新に奇兵隊の隊士として活躍、名もなく消えていった草莽の人たちのことが思われる」というものです。
句碑は、奇兵隊士の墓の入り口にあり、昭和56年(1981)、教え子たちによって建立されました。
喜作の墓は、もと、下関市勝安寺の無縁墓地にありましたが、昭和44年、清水山に迎えられました。
勝安寺墓地の草むらに三分の一ほど石柱が見え、よく見ると、奇兵隊の「奇」が読みとれたことがきっかけだったそうです。勝安寺の過去帳には、小倉戦争による戦病死とありました。

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芭蕉句碑

うぐいすを魂にねぶるか嬌柳

嬌柳(たおやなぎ)は、柳の枝がしなやかに品よく垂れさがっているさまをいいます。
芭蕉の研究者、小宮豊隆は、この言葉は、芭蕉の新造語であろうと言っています。また「荘周が夢に胡蝶となったという〈荘子〉の記述にヒントを得て、あの嬌柳は、うぐいすを魂にして眠っているのだろうと想像してこの句を作ったものに相違ない。無限に美しい春の世界を自然愛の濃やかさでまとめあげた句の一つである」とも言っています。
芭蕉の句碑は数多くありますが、通俗的な名句がほとんどで、このような難解な句を選び、形の大きいことからも、めずらしいものです。
この句碑は、もと吉田町内天神山の藪のなかにあり、建立者は随流舎可柳とあることから、おそらく自分の号にちなんでこの句を選んだものと思われます。

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飯田蛇笏句碑

松風にきゝ耳たつる火桶かな

俳聖として名高い飯田蛇笏は、昭和6年(1931)2月、木枯らしの東行庵を訪れ、その紀行文「旅ゆく風詠」の中に
「松風にきゝ耳たつる火桶かな(碑文)」
「春霜や東行庵の片ひさし
 春寒く尼僧のたもつ齢かな」
などの句が残されています。
「松風に…」句は自筆の短冊をもとにしたもので、昭和53年(1978)10月19日、東行庵の前庭に建立されました。

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佐野操句碑

幻華立つ冬緑なる曼珠沙華  操

佐野 操(本名銀蔵)、明治37年(1904)下関市吉田に生れました。
小郡農業学校を卒業。昭和初年発刊の総合文芸誌『燭台』に童謡詩人として登場。菊池寛 編集の『小学生全集』に幼年向きの童話が採録されています。のち俳句に転向。俳誌『其桃』の同人。俳人評、俳句観賞に健筆をふるっています。著書に句文集『桃苑散歩』 があります。地元では「吉田小唄」を作詞。生業は雑貨と竹材を扱っていました。
句碑は、平成6年、清水山紅葉谷の入り口に建立されました。

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